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〇〇選手のママと呼ばれるより〇〇選手でいたい

呼び名というものはその人の社会的位置を示す上で必要なものである。そもそも人間が群れずに単独で行動する生物であれば他の個体を識別するための呼び名や指示語を持つ必要はない。
大いに社会的な生き物である私も、生きていく中で多くの呼び名を獲得してきた。
幼少の頃のからの親や友人から呼ばれる愛称「はなちゃん」、弟ができて「お姉ちゃん」と呼ばれるようになり、弟がしゃべるようになって「ねえね」と呼ばれるようになった。家族の中で過ごしていたうちは使わなかった名字を記憶はないが保育園時代から集団生活では利用するようになっていたのかもしれない。小学校に入ると当然のように「山田さん」と呼ばれるようになった。
 
前置きが長くなったが、集団や役割によって「先輩」や塾の「先生」のような名前以外の呼び名を獲得し、結婚してからは名字変わって結婚前に付き合っていたグループ、結婚後に出会ったグループなどコミュニティによって呼び名の細分化が進んだ。
 
そして本題、「太郎くんママ」と呼ばれるようになったのが1年ほど前のこと。保育園や病院で呼ばれることがほとんどであるが、最初に呼ばれたときはなんとも誇らしく、嬉しく、ちょっとくすぐったいような感じだった。
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1歳4ヶ月を目前にして未だ「ママ」とまだ発することのない息子だが、もう間もなく当事者から「ママ」と呼ばれることになるだろう。いつになるんだー!とやきもきしながら発音を教えているものの、モノの名前という概念がまだ薄いのか自分が手を振れば自動的に振り向いてくれると思っているのか、まだまだ呼ばれる日は来ていない。
 
ママと呼ばれるその日に備え、お腹の中にいたときから数えて2年を超える日々をすごして、彼のママに恥じない人になろう。
いつか彼が主語になる時代も来るだろうが、「〇〇選手のママ」ではなくて、今はまだ私が「〇〇選手」側にいたいものだ。
 
これがオリンピック見て思った感想。
まぁ選手でもなんでもないけど。

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